◆トラットリアの閉店

 いつものトラットリア(イタリア料理店)が閉店する。ちょうど今ごろ、ラストオーダーだろうか。なじんできた店内をカメラに収め、あの店での最後の夕食をすませてきた。だが、感傷的になっているのは私だけであったようだ。

 わたしがたまに行く店は、つぎつぎとつぶれてきた。ほんのいくつかの例外を除いては、原因は一言、「集客力不足」に尽きる。

 もちろん、つぶれずに繁盛している店も多い。だが、両者には紙一重の差しかない。いや、つぶれた店の方がよかったと思える例もある。何が明暗を分けるのか。確かなのは、簡単にはわからないということだけだ。

 今日閉店するトラットリアは、「たまに」ではなく「しょっちゅう」私が行く唯一のレストランだ。さすがにつぶれたりはしない。いわゆる発展的解消をして、広さが数倍もありそうな新しい店へと移転するのだ。

 思えば、なじみの店が移転して大きくなるなんて、たぶん初めてのことだろう。ほとんどの店は、同じ場所で営々と客に料理を提供し続けている。私にはとても真似のできないその営為に敬意を表さずにはいられない。

 さて、いつものトラットリアは、新しい場所で今まで以上に繁盛するだろうか。

 店は広くなる。外観はオシャレだ。内装は綺麗になる。大きなガラス窓が開放感を感じさせる。新しく、女性スタッフがフロアを担当する。

 しかしながら、未来に夢を描くより過去に浸って感傷的になりやすい私は、あの店の今後がどうもうまく思い描けない。

 現在の、男3人が切り盛りする店。間口が狭く、いわゆるウナギの寝床である。何となく暗い。

 駐車場の台数が少なく店から遠い。しかも場所がころころ変わる。

 コートをかける場所すら碌になく、移動するにはカウンターに腰かけた客の後ろをカニ歩きしなければならない。トイレの扉の幅は最小限で、プロ野球選手だったら入れないのではないかといらぬ心配をしてしまう。4人がけテーブルの横幅は1メートル。

 愛想がいいわけでもなく、値段が安いわけでもない。それでいて、味がとびきり素晴らしいとは、たぶん言えない。

            (許せ、マスター)

 だがなぜか、決まったように足が向くのだ。理由はたぶん、一言でいえば居心地の良さだろう。しかしそれは、ほどほどの愛想や狭さによるところも大きいのだ。

 以前から、通うのがワクワクするような看板娘を置いて欲しいとひそかに思ってきた。

 だが、もしかして今度、事実そうなったとき、陽光差し込む明るい店内で愛想良く「銀のお盆を抱えて『いらっしゃいませー』」と微笑む「まっすぐな脚の娘」(ほとんど誰にもわからないよな、この引用の意味・・・)は、あの居心地を破壊してしまわないだろうか。

 立地は、外観は、内装は、新しい客層は、そして一新されるランチメニューは・・・

 おそらく1か月後には、すべて杞憂に終わっていることだろう。

 今回の一件で改めて確認できたのは、保守的で感傷的で後ろ向きな自分の性向だという、あまり嬉しくない事実だけかもしれない。

 そうこうしているうちに閉店時間だ。ともかく一度、幕は下りる。