■Slow Dance

 テレビはほとんど見ない。ましてテレビドラマは。

 だが、各クールに1つぐらいは、「見るに堪える」を超えて「放送が楽しみな」ドラマが欲しいと思う。実際にはなかなか叶えられない望みなのだが。

 今終わりつつある2005年夏のクールでは、前者が「女系家族」、そして後者が「Slow Dance」ということになるだろう。最近では「当たり」の期間だったということかもしれない。

 スローダンスのほうだが、「若者」向けの大甘な恋愛ファンタジーが、どうしてこんなにおもしろいのか。もちろんよくはわからない。批評能力もなく、批評する気もない身にとっては、とにかく、楽しく見られて次回も楽しみだということ以外に確実なことは何もない。

 おそらく、プロデューサーとかディレクターとか出演者とか、その他多くのスタッフが実現した作品世界が私にとって成功していると言うしかないだろう。

 ただひとつ思うことは、多くの場面で脚本が素晴らしかったということである。特に、インフォメーションギャップを利用して会話をすれ違わせたり、発言を相手に曲解させたりすることによって落差を生んだりする手法が光っていた。

 視聴者の方は情報を持ち、神の視点から会話を見ている。すれ違っていく男女にもどかしさをかき立てられ、曲解による飛躍に笑いを誘われる。

 われわれの実生活でも、ディスコミュニケーションはしばしばあり、ドラマと同じようなこともよく起こっている。だが、多くの人は当事者としてそれを経験するだけで、何が起こっているかを外から見ることはできない。せいぜい、自分の発言が「誤解」されていることを「理解」して、「いや、そういう意味じゃないんです」と説明するのが精一杯である。

 この物語では、逆に、その説明が省かれる。そして劇中のキャラクターは、多くそのインフォメーション不足と誤解を抱えたまま行動する。いや結局、「友情」によってピースが嵌め込まれたりするのだが、当事者同士で賢(さか)しく自己への理解を相手に強要しないところが共感を呼ぶ。

 多くの視聴者は劇中の誰かに感情移入するのではなく、そういうスローなダンスを踊っている面々をはらはらしながら外部から眺めて楽しんでいるのだ(違うかな?)。

 ・・・と書いてきたが、これは書きたかったことではない。

 会話というのはああいうふうにすれ違っていき、しばしば口論や諍いへと発展することはよく知っている。だが、それをあんなふうに脚本化、作品化する力は私にはない(当たり前だ)。脚本家の仕事に脱帽する所以である。

(ところで、誰なんだろう? 脚本書いたの)