●時は流れて

 祖母の通夜の席。仕事で遅れて参列した。

 というか、「参列」はできなかった。僧侶は帰った後で、もはや親戚一同が寿司を食べ終わっているころであった。

 祭壇には

 法名 釋 ○△

とか書いてあり、「何やこれ? おばあちゃん、浄土真宗やったん?」みたいな間抜けな会話を繰り広げる。

 祖母の父親、つまり私の曾祖父が、私の小学生時代にはまだ生きていたことを初めて知った。

 生まれる前から祖父はいなかったので、それより年上の人がいたなんてまったく知らなかった。

 2つ上の兄は、「小学生のときに見舞いに行ったことがあるのを覚えている。横になってはいたが、ぼけてはいなかった」という。母と兄とで「お前も行ったことがあるはずだ」とかいうのだが、まったく覚えていない。

 何しろ、存在すら今日まで意識になかったのだから。

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 到着早々、親戚の面々を見回していたとき、すぐ右前方に叔母がいて、それが自分より若いのにびっくりした。

 「えっ、何で !?」と一瞬信じられない思いだったが、1秒後ぐらいにはそれが叔母の娘(=従妹)であることに気づいた。

 顔が完全に叔母である。それも、小学生のころに私がよく会っていた・・・

 従妹は「めっちゃイヤやわぁ」と傷ついていた。

 だが、叔母本人も、どうかすると私と同世代、せいぜいで「お姉さん」に見える。このごろの「高齢者」はみんな若いなあ・・・ それにしても、いくつになったんだろう?

 兄嫁も若い。確か私と同い年のはずだが、二十代のころから変わっていないように見える。私はせめて、三十代に見えるだろうか?

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 親戚がわいわい言っているだけで、湿っぽさは微塵もない。母や叔母や、祖母の若い弟などが家系の話や昔話などをしている程度である。

 便利な世の中になって、通夜の火を絶やさぬ努力もほとんど必要ない。放っておいても一晩中消えない渦巻き型の線香の火が祖母を見守っている。

 その右前方に、短い一本だけになってしまった棒状の線香を認め、一本加えて火をつけている私が、もしかすると一番感傷的になっているのかもしれないと思った。

 いや、それぞれが自分の中に違う感傷を持っているのだろう。幼い子どもたちは別にして。

 辞去する前、家人と息子にも線香をあげてもらった。

 息子は祖父母や従兄弟といられるのが楽しいようで、通夜の席に残って泊まるという。

 小さいころ、祖父母の家に行くたびに、曾祖母の部屋に閉じこもって遊んでもらっていたことを覚えているだろうか?

 まあ、それは忘れているにしても、曾祖父がいたこと自体を知らなかった(忘れていた?)私のようにはならないだろうと思う。

 長生きは無駄ではない。

 もう1人の曾祖母の葬儀の時にはまだお腹の中にいた息子も、この曾祖母の通夜・葬式を忘れてしまうような年齢ではないほど大きくなっている。