★気付かれぬ気遣い

 しばしば昼食を食べる寿司屋で、久しぶりに食事した。

 桜鯛が殊のほか素晴らしかった以外は、おいしいには違いないけれども、まあいつものお寿司である。

 寿司が終わって赤だしが出てきたので、蓋を取って横に置き、立ち上がる湯気で目を愉しませ、軽く香りを吸い込んでから、すぐに口に運ぶ。

 書くとそうなってしまうが、ほとんど何も意識していない一連の動作だ。

 だが、ひと口飲んだ瞬間、なぜか、いつもは気付かぬことに気付いた。

 もしこの赤だしが熱すぎたらどうなるのか。火傷しないまでも、あちち・・・となるはずである。

 なのに、なんの躊躇いもなく、ふーふーしたりすることもなく、そのまますぐに口に運ぶことが習慣になってしまっている。

 では、赤だしは冷めているのか。いやむしろ、熱いくらいだ。しかし、絶妙なバランスで決して熱すぎない。それが毎回同じなのである。

 そのことに初めて気づいた。

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 この店の茶碗蒸しの蓋が常温であることには以前から気がついていた。

 別の店の茶碗蒸しは、おしぼりを鍋つかみ代わりに使わなければならないほど熱い。

 この店ではおそらく、蒸し上げてから蓋だけ取り替えているのだろうとは、以前から想像していた。客が構えずに蓋を外せるように。

 赤だしは、毎回必ず適温で供される。いつもより熱いとかぬるいとか思ったことは一度もない。それはどのくらいの精度なのだろう?

 家でカフェオレを入れるときは、作ってからレンジで暖めることが多いのだが、仕上がり温度が60℃と65℃とではまったく異なる。たぶん、63℃くらいの設定ができれば一番いいと思うのだが、60℃ではぬるすぎ、65℃では熱すぎるのだ。

 とすれば、あの赤だしの温度は、客の前に出されてすぐに蓋が開けられた時点で、(たとえば)63℃±1℃くらいなのではないかと推察する。

 そのくらいになるように、毎回計算されて(というか気遣われて)供されるのだ。

 その気遣いが当たり前すぎて、今日まで気付いていなかったのである。

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 だしを引いたのが誰だかは知らないが、実際に運んでくるのは必ず、この道10年未満と思しき20代の若手である。まだまったく、寿司など握らせてもらえない。

 あとの2人はずっと握っているので、赤だしは若手に任されている。

 「何にもでけへん」「言うてもわからへん」とよく言われている男である。その人が出してくる赤だしの温度に、まったくブレがないとは。

 まあ、もしかしたら、適温に保つ湯煎の機械にかけていて、そこからお玉ですくえば自動的にあの温度になるのかもしれない。

 だがおそらく、それほど簡単なことでもあるまいと思う。

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 相手に気付かれないほどの気遣いが本物の気遣いである。

 私が鈍感だっただけかもしれないが、あっぱれと言うほかない。

 省みてわが身、他人に対してどれだけの「気付かれぬ気遣い」をしているか。

 少なくとも家人には、「あれもしてあげたこれもしてあげたアピール」を欠かさないけれど。