◆初めての夜会(その3)
(さらに承前)
それでも、やはり、生の中島みゆきを見、聞けたことは確かな1つの幸福であった。できればオペラのように、マイクなしでその声を聞きたかった。1曲だけでもいいから。
生の中島みゆき・・・
今回の「夜会」のテーマである(と思う)「人生について、時を重ねるということについて、考える」と、彼女もまもなく、57歳になる。
以前ここに、若い友人が彼女のことを自分の祖母のように感じていると知ってびっくりしたことを書いたが、実際、小学生ぐらいのだったら、孫がいてもおかしくないような年齢だ。
バードウォッチング用の防振双眼鏡は、その性能をいかんなく発揮した。
双眼鏡使いの「ルールその2」は、「人間を見るな」である。理由は言うまでもあるまい。
(ちなみに、どうでもいいことですが、その1は「太陽を見るな」です)
だが、「夜会」においては、徹底的に無遠慮に、何ら良心の呵責にさいなまれることもなく、人間の細部を凝視するのだ。
考えてみれば、スポットライトを浴びた56歳の女性にとって、これはかなり抵抗のあることではないかと思う。
舞台は何しろ、明るいときは無茶苦茶に明るい。
藪の薄暗がりの中に入った保護色の鳥すら見いだすような双眼鏡で、体重で言えば1000倍以上も大きい対象を見るのだから、それはもう、大迫力である。
顔も衣装も、眩しいまでに目に飛び込んでくる。視野がちょうど全身を映すぐらいで好都合だし、細部を見れば、手相だって見えた。
手には年相応に皺が寄り、節々に年齢を感じたが、顔にはハリとツヤがあり、皺はほとんどなかった。だが、たるみは十分にあって、変な言い方だが「たるんだ肌が張って輝いている」という感じであった。
中島みゆきの魅力は、もちろんその容姿にあるのではない。
それでも、昔は写真ですらほとんど見られなかった彼女の容姿は、けっこう私の美意識に叶ったものであった。
慌てて言う。56歳の現在でも、十分に綺麗で魅力的だ。
しかしながら、やはり(たとえば)20年前にコンサートに行って、同じ空間を共有し、若くてもっと美しかった彼女も見ておくべきだったという気がしないでもない。
そのころ私が持っていた双眼鏡の(低)性能なら、彼女はさらに美しく見えたことだろうとも思う。
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長生きした小説家は損だ、という言い方をときどき聞く。取り上げられる肖像が、ほぼ常に「おじいさん(おばあさん)」だからである。
芥川や啄木や一葉には年を取った写真がない。
ところが、若いころの写真だってそれなりにあるはずの作家たちは、なぜか晩年の容貌で代表させられてしまう。
昨年、祖母の葬式のときも、写真はほぼ最晩年のものであった。
年末に実家に行ったとき、20歳そこそこの祖母の写真を見たら、相当な美女である。
戯れに「おばあちゃんの葬式、この写真とか使(つこ)たらよかったのに」というと、母は「あほかいな。こんな昔の写真使(つこ)て葬式出す人なんかおれへん」と言っていたが、半分は真面目に、ほんとに使ってもいいのに、と思う。最晩年の写真を、しかも「そのままではあんまりだから」といって修正したりして使うよりはよほどいい。
20歳のときだって40歳のときだって、その人に変わりはないし、最後が99歳の即身仏だったからといって、その姿で人生を代表する必要はないのだ。
もちろん、その姿もその人のひとつではあるんだけれど。
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中島みゆきには、80歳になっても90歳になっても、歌を作って歌い続けてほしいと思う(さすがに100歳はどうかな?)
その時、残酷な双眼鏡が年老いた彼女を映し出したとしても、少なくとも私のまぶたには、肌にツヤのある、56歳にしては若くて美しすぎる彼女の姿の残像が映し出されていることだろう。