■共産主義の残滓?
気のせいかもしれないが、ときおり、共産主義時代を髣髴とさせるような無愛想な店員などに遭遇することがある。
最初の体験は、クロアチアに入った初日のことであった。国境を越えてたぶん最初のサービスエリアにある ATM の紙幣が出払っていて、お金を引き出すことができなかった。
トイレに行きたかったのだが、クロアチアクーナのぴったりのコインを入れないと通れない、機械式のバー改札がトイレの前に立ちふさがっている。
そもそも、国境を越えてすぐのサービスエリアのトイレがそんな仕組みであることにまず驚いた。
現金はないし、トイレはそれなりに切迫していたので、同じ建物内ですぐ横の軽食堂のおばさんに、トイレに行きたいのだが、現金がなくて困っている、何とかならないかと聞いてみた。
ところが、ぶすっとしたままニコリともせず、もちろんすまなそうにもせず、こちらの状況には一片の同情も示さず、無表情に、
No cash, No toilette.
と繰り返すだけ。
その瞬間、共産主義の亡霊を見た気がした(共産主義者のみなさま、すみません。主義としての共産には理解がない方ではないと思いますが、現実としての国家とその悪い面の・・・という意味です)。
この人ではどうにもならないと思い、さっき ATM で助けてくれたおじさんを見つけて事情を話すと、あっという間に鍵を持ち出してトイレを無料で使わせてくれた。
もちろん入る前には全身で感謝を表したが、出てからもお礼を言おうと探したのに見つからなかったのが心残りである。
クレジットカードで何か買わせて余分に課金して小銭を渡してくれてもいいし、ユーロの現金なら持っているから多めに払わせて換金してくれてもいい。
おじさんのように親切にしてくれるのは望みすぎかもしれないとは思うものの、立場が逆なら間違いなく同じようにしただろう。
少なくとも、ちらっとでも「困りましたね」という表情が出れば救われたのだが、能面のようにと言っては能面に失礼なほどの無表情であった。
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滞在中、似たような共産国家人物に数回遭遇した。違うタイプの共産国家人物にも1回。
なんだか、共産主義の悪口を言っているようで後味がよくないが、逆に、自分に利益が入ってくるからこそ愛想よくするのかと思うと、そんな殺伐とした資本主義も願い下げにしたい。
ふれあいとかまごころとか、思いやりとか助け合いとか、ちょっと恥ずかしいような言葉で表される関係性を基軸とした社会を構築するのは、われわれ人類にはやはり無理なのだろうか。