●シアワセなひとびと

 タイトルだけ思いついて、何をどう書けばいいのかのところで止まってしまった。

 いずれにせよ、いつも考えていることの繰り返しになるんだけれど、それを実感できる機会というのは実はそれほど多くない。

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 たとえば、「野間の大ケヤキ」に行きたいと熱望している女の子がいて、「能勢電鉄妙見口駅から歩くしかない」と考えている。

 今ネットで調べると、バスが1時間に1本出ていることがわかった。「一日に三本」なんてバスが近場にあることを知った今では、天国のような交通至便だ。

 そこに行きたいはずの彼女は、調べることをしなかったのだろうか。いや、ネット環境を持っていないのかな?と思いあたる。それに、具体的にそこに行こうと決心するまでは、どうやって行くかをきちんと調べるところまでなかなかたどり着けないものである。彼女にとっての大ケヤキは、ぼくにとってのアイスランドと同じなのだ。

 いや違う。

 一つには、ぼくのアイスランド熱よりも彼女の大ケヤキ熱の方が明らかに大きいこと。もう一つは、その願いを口に出しさえすれば、親切な誰かがその友人に伝えたりして、すぐに実現してしまうことだ。ほんのついでのように車を走らせれば、ものの10分もかからずに「夢」は実現する。

 にもかかわらず、その満足感は、アイスランドで間欠泉を見上げるぼくのそれよりおそらく深い。

 また別の場所で、ちょっと尋常ではないお金のかけ方をした趣味の鉄道模型(模型というにはあまりにもスケールが大きすぎるけれど)を見ながら、「やっぱりお金があるって素敵ですね。子どもたちも、お金持ちになったらこんなこともできるようになるんだと思うと、夢がありますよね」というようなことを言う。

 皮肉や嫉妬はもちろん、「格差と貧困」に対する義憤のようなものも微塵もない。

 「いやあ、夢も希望もないよ。こんなことを実現しようと思ってがんばっても絶望するだけだよ」とぼくなんかは思うのだが、それは口に出さない。

 彼女は裕福ではない。一抹の寂しさを纏った「お金がないから無理」感をときどき漂わせる程度に、むしろ貧しい。

 でも、小さなことにもいつもわくわくしていて、「楽しくて仕方がない」感を周囲に撒き散らしているのが彼女だ。彼女を見ていると、お金が(それほど)ないことすらシアワセの原因になっていることがわかる。

 たとえ本人はそれを認めないとしても。

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 その彼女以外にも、シアワセな老若男女と接する機会がたまにある。そういうひとびとは、例外なくいい顔をしている。「笑顔が周囲を幸せにする」というような陳腐な表現はなぜ陳腐なのか、がわかるくらいに、その顔顔顔は説得的だ。

 たまに(あるいはその中でもごく稀に)とはいえ、そういう笑顔を身近に感じられる(た)私自身、もしかしたらシアワセなひとびとの一人になりうるかもしれない。

   Happiness is not a standard of life;

   it is a state of mind...